1946(昭和21)年5月3日に開廷した東京裁判は1948(昭和23)年4月16日に結審し、同年11月12日に判決が言い渡されるまで、開廷回数は800回を越えました。
その間に日本国憲法が公布され施行されたわけです。
ところで、なぜ5月3日なのでしょうか?
「修正帝国憲法改正案」自体は、1946年10月のうちに、帝国議会での審議を経て、天皇臨席のもと枢密院本会議で全会一致で可決していたのですが、施行日については、吉田茂首相を中心に閣議で議論されました。
その経緯は、
5月1日はどうか? → その日はメーデーだから都合が悪い。
では 5月5日はどうか? → その日は端午の節句で男女平等の新憲法に相応しくない。
だったら間をとって5月3日にしようか、それなら公布は半年前の11月3日だ、
という流れでした。
東京裁判に戻ります。この裁判で連合国は、陸軍大将・内閣総理大臣などを歴任した東條英機、外務大臣・内閣総理大臣などを歴任した広田弘毅を始めとする日本の指導者28名を裁きました。
この裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名全員が有罪判決を受け、うち7名が死刑判決を受けました。
7名の絞首刑の執行は、巣鴨プリズン内で、1948(昭和23)年12月23日午前0時1分30秒に始まり、同35分に終了しました。
東条英機、広田弘毅らの刑が執行された12月23日は当時皇太子だった今上天皇の満15歳の誕生日、つまり現在の天皇誕生日でした。
A級犯罪(平和に対する罪)では戦争指導者23名が有罪となり、捕虜虐待行為といったB級犯罪(通常の戦争犯罪)では7名が有罪となりました。
この東京裁判は、後から作った法律で過去の犯罪を裁いたという点で罪刑法定主義に反した誤った判決であることは明らかでしたが、残念ながら当時の日本政府には、この判決を受け入れないという選択肢はありませんでした。
2017.05.05