40数年前に脚光を浴び始め、これからという時に病に倒れ、若くしてこの世を去ったジャズシンガーがいました。
木村芳子です。
彼女は、1945(昭和20)年6月生まれ、駒澤大学在学中から米軍キャンプで歌い始め、卒業後、ジャズシンガーとなりました。六本木のジャズバー「J&B」ではリーダーを務め、赤坂のナイトクラブ「ゴールデン月世界」などでも歌っていました。
当時、私はまだ学生でしたが、共通の知り合いから木村芳子を紹介され、その後、何度か会う機会があり、コンサートにも足を運びました。
東京都内で開催されるコンサートでは、いつもドラム奏者のジョージ川口と一緒に活動していました。ジョージ川口はその当時から有名でしたが、後に「ジャズドラムの神様」と呼ばれるようになりました。
昔のことですので記憶が断片的になっているところもありますが、長い時間の流れの中から切り取られ、今でも鮮明に目に焼きついている瞬間もいくつかあります。
1976(昭和51)年、新宿の「厚生年金会館」での木村芳子のリサイタルの時のことです。
開演前のロビーにステージ衣装のまま現れた木村さんが、私を見つけて「まぁ、いらしていただいてたのね!」と満面の笑みで暖かく出迎えていただいたこと、また「ヒゲの殿下」として親しまれた寬仁親王がどういう縁だったか忘れましたが、木村芳子をひいきにしていて、この日もいらっしゃっていたこと、殿下が警護職員をつけずに軽快な足取りでロビーを歩いていたこと、たまたま殿下とトイレで一緒になったことなどなど、昨日のできごとのように蘇ってきます。
そのリサイタルの翌年、1977(昭和52)年に、木村さんは渡米して録音した「メモリーズ」というLPのファーストアルバムを発表しました。
しかし、このころには、すでに木村さんの身体は癌に侵されていました。
病状については、時々知人から連絡が入っていましたが、本当にあっという間に悪化し、同じ年の9月に、32才という若さでこの世を去りました。
生前の木村さんのいちばんの親友が前野曜子でした。
前野曜子は、宝塚音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に入団し、その後、ペドロ&カプリシャスの初代ボーカルとして「別れの朝」で大ヒットを飛ばしましたが、浴びるほどお酒を飲んでいたため、長年の深酒がたたり肝臓を患って、1988(昭和63)年に40才の若さで亡くなりました。2代目ボーカルは、いまも活躍中の高橋真梨子です。
40数年前に木村さんの周りで元気に活躍していた人たちは、みな亡くなってしまいました。
・1977(昭和52)年、木村芳子、享年33(満32才)。
・1988(昭和63)年、前野曜子、享年41(満40才)。
・2003(平成15)年、ジョージ川口、享年77(満76才)。
・2012(平成24)年、寬仁親王、享年67(満66才)。
ちなみに、木村芳子、前野曜子、寬仁親王は同い年でした。
脚光を浴び始め、ファーストアルバムをリリース、順風満帆で、これからというときに病に倒れた木村芳子は、昔のジャズファンの間では「伝説のジャズボーカリスト」と呼ばれているようです。
とても気さくで、ふくよかだった木村さんが亡くなって、今年でちょうど40年になりますが、その歌声は今でも残っています。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と言いますが、歌い手は死して曲と歌声を残します。
ジャズファンの方が2009年にYouTubeにアップロードした
「メモリーズ」の中の1曲(4分35秒)の視聴回数が38,000回を超えているようです。
2017.09.13