先月、
第22話【佐賀】宮本武蔵ゆかりの宿「湯元荘・東洋館」に投宿 に書かれているように、宮本武蔵ゆかりの宿、佐賀県の武雄温泉「湯元荘・東洋館」に泊まりました。
武蔵は、江戸時代初期の剣豪で岡山県美作の生まれ、右手に大太刀、左手に小太刀の二天一流兵法の開祖として有名です。
武蔵の著書「五輪書」には、13才のときに新当流の有馬喜兵衛との真剣勝負に勝ってから、29才までに60数回戦い、すべてに勝利したと書かれています。
60数回と聞けば凄いと思うのですが、2つの戦いを除けば、勝てる相手としか戦わなかったとも言われています。
そのひとつが、21才のころに、足利将軍家の剣術師範を務めた京都・吉岡道場の吉岡清十郎・伝七郎兄弟です。このとき、武蔵は、吉岡兄弟の攻撃をかわして逃げながら狭い場所に誘い込んで、ひとりひとり倒す戦法をとったと言われています。
もうひとつは、1612(慶長17)年の佐々木小次郎との「巌流島の戦い」です。このとき、武蔵は、わざと遅刻して小次郎の平常心を失わせる戦法をとったと言われています。
しかし「巌流島の戦い」は歴史的な文献としては残されておらず、後に歌舞伎や小説で取りあげられたものが定説になっているだけですので、実際のところどうだったのかはわかりません。
また「巌流島の戦い」のとき武蔵は28才でしたが、小次郎は60代後半だったと考えられていて、体力差は歴然でした。
このように、武蔵の60数連勝というのは、戦う前から勝てるとわかっている相手を選びながら戦って連勝記録を伸ばしていき、勝つか負けるかわからない相手の場合には、策を弄して勝てる状況を作ったということになります。
それは武士として卑怯なことだと言われているのですが、私はそうは思いません。兵法家・宮本武蔵として正しい戦略をとったのだと思います。
中国では、紀元前500年ごろ、呉の孫武により兵法書「孫子」がまとめられました。孫子の教えは「勝つべくして勝たなければいけない、負ける戦いをしてはいけない」です。まさに宮本武蔵の戦い方そのものです。
その後、武蔵は肥後熊本藩・初代藩主・細川忠利に招かれ、晩年の5年間を熊本で過ごしながら、兵法書・五輪書を執筆し剣術の奥義をまとめ、1645(正保2)年、62才で亡くなりました。
2017.05.30