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酒興放論

お気楽に人生を楽しんでばかりいるとバカになってしまうので、せめて1日に1回ぐらいはまとまったことを考えてみようというところから始めたお気楽ブログで、お酒を楽しみながら言いたいことを言うという趣旨です。ふだん、飲み友だちと居酒屋で酒を酌み交わしながら話し、話した先から消えていくような、1話1~2分のたわいもないお話です。心境が変化したら、ある日突然やめるかもしれません。

第128話【グルメ/弘前】蕎麦作りの匠の技は、受け継がれもし途絶えもする

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第128話【グルメ/弘前】蕎麦作りの匠の技は、受け継がれもし途絶えもする

栃木県足利市にある大正15(1926)年創業の老舗の蕎麦屋「足利一茶庵本店」は、全国の一茶庵系そば店の総本山です。

初代の片倉康雄さんは埼玉県北埼玉郡樋遣川村(現・加須市)の生まれで、大正15(1926)年、22才のときに、新宿駅東口駅前に「一茶庵」を開きました。間口二間半、奥行き五間半(約4.5m × 約10m)の小さな店でした。

片倉さんは、昭和2(1927)年、23才のときに、当時、蕎麦打ち名人としてその名を知られた、北区滝野川の「藪忠」の主人・村瀬忠太郎さんのもとに通い手打ちの腕を磨き、その後、大田区大森に移転しましたが、昭和17(1942)年、38才のときに戦時食糧統制のため、いったん閉店しました。

そして、戦後、昭和29(1954)年、50才のときに、栃木県足利市で「一茶庵」を再開し、41年後の平成7年、91才で亡くなりました。

「一茶庵」は、現在は、現役2代目と3代目に受け継がれていますが、ここで修行し、暖簾分けした店が全国に散らばっています。

この「足利一茶庵本店」から巣立っていった店のひとつに「駒形・蕎上人(こまがた・そばしょうにん)」があります。

平成元年に開店したときの店名は「浅草一茶庵」でしたが、平成9年に店名を「駒形・蕎上人」に変えるとともに「そば・うどん教室」を開きました。

この教室の卒業生で独立開業した店は、全国に400店舗以上あります。

そのひとつが、青森県弘前市の「てうち蕎とそば会席料理・一閑人(いっかんじん)」です。

この店の店主・内山丈市さんの打つ江戸二八蕎麦は、目にして感動、食べて感動、本当に見事でした。師匠の「駒形・蕎上人」をはるかに超え、さらに、その原点の「足利一茶庵本店」をも超えて、手の届かないところまで行ってしまったとさえ感じていました。

店主の内山さんとは、20年ぐらい前から親しくさせていただいていましたが、残念なことに昨年12月31日をもって閉店しました。数年前から、そろそろ仕事をやめて趣味に生きたいとつぶやいていましたので、その気配はあったのですが、本当に残念なことです。

この内山さんの優秀な兄弟弟子が開いた店が、東京・神田神保町の「手打蕎麦たかせ」です。

店主の高瀬さんは、数か月間、開店当時の「一閑人」を手伝っていた方ですので、同じ系統です。「たかせ」の「二八そば」もかなり美味しいです。

また、以前、「駒形・蕎上人」から、宇都宮の「八寸庵・花子(はちすあん・はなこ)」も、うちで修行された方ですよと教えていただいたことがあります。

「花子」は、JR宇都宮駅西口から徒歩15分ぐらいの住宅街にある古民家風の居酒屋で、野菜料理を得意としています。

ここに挙げた「足利一茶庵」、「駒形・蕎上人」、「弘前・一閑人」、「神田神保町・たかせ」の蕎麦は、どこも美味しいです。「宇都宮・花子」も美味しいとは思いますが「足利一茶庵」伝統の味をそのまま受け継いでいないところもあると思います。
 
それにしても、匠の技を極めた「一閑人」が店じまいしたのは返す返すも残念なことです。

2017.08.06
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