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酒興放論

お気楽に人生を楽しんでばかりいるとバカになってしまうので、せめて1日に1回ぐらいはまとまったことを考えてみようというところから始めたお気楽ブログで、お酒を楽しみながら言いたいことを言うという趣旨です。ふだん、飲み友だちと居酒屋で酒を酌み交わしながら話し、話した先から消えていくような、1話1~2分のたわいもないお話です。心境が変化したら、ある日突然やめるかもしれません。

第114話【歴史】新宿の今昔、歌舞伎町は夜の街からゴジラの街に、しかし中身は変わっていない

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第114話【歴史】新宿の今昔、歌舞伎町は夜の街からゴジラの街に、しかし中身は変わっていない

江戸時代草創期の1601(慶長6)年、徳川家康は、江戸と諸国とを結ぶ五街道の整備に着手しました。

その五街道とは、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の5つの街道を指します。

そして、1604(慶長9)年、五街道の起点を日本橋と定め、日本橋から1里(約4km)ごとに一里塚を設け、街道沿いの宿場の整備を進めました。

宿場は、東海道であれば品川宿、中山道であれば板橋宿、日光街道・奥州街道であれば千住宿というように、日本橋から約2里(約8km)の地点にあったのですが、甲州街道だけは、なぜか最初の宿場が日本橋から約4里(約16km)離れた高井戸宿でした。

そこで、1699(元禄12)年、日本橋と高井戸との中間点に位置する「内藤新宿」に宿場を作ることになりました。これが新宿の地名の由来です。

昭和に目を移すと、第二次世界大戦中の1945(昭和20)年の東京大空襲で、新宿は一面焼け野原になりましたが、戦後、早稲田大学教授・石川栄耀(いしかわ・ひであき)を中心に新宿復興事業が進められました。

その事業の内容は、現在の歌舞伎町に、歌舞伎のための劇場「菊座」を建設し、そこを中心に芸能関連施設を集中させて芸能タウンを建設する、というものでした。

この計画は、1948(昭和23)年に歌舞伎町を誕生させ、1956(昭和31)年に新宿コマ劇場を建設するところまでは順調に進みましたが、その後財政的な問題から暗礁に乗り上げ、この構想は中止になってしまいました。

もともと歌舞伎のための劇場として建てられた新宿コマ劇場は、1956(昭和31)年の開業から52年間、数々のミュージカル作品が上演されたり、「演歌の殿堂」として演歌歌手のコンサートが行われたりしましたが、建物の老朽化が進んだこと、業績が低迷していたことから、2008(平成20)年の大晦日をもって閉館し、新宿コマ劇場の跡地には、2015年4月、地上31階建ての新宿東宝ビルがオープンしました。

新宿東宝ビルの8階の屋外テラスには、ゴジラの実物大の「ゴジラヘッド」が設置されました。

靖国通りから新宿東宝ビルまでの通りは、以前は「セントラルロード」と呼ばれていましたが、歌舞伎町商店街振興組合は、この通りの名称を「ゴジラロード」に変更し、通りの長さを、ゴジラの体長と同じ118.5メートルとして、歌舞伎町を「ゴジラの街」と命名することを提案し、東宝がこれに賛同したため、2016年7月、新宿区も「歌舞伎町=ゴジラの街」にすることを認めました。

お役所が認めるということは、道路標識が変わるということです。確かに、いままで「セントラルロード」と書かれていた標識は「ゴジラロード」に変わりました。
 
昼に「ゴジラロード」に行くと、「ゴジラヘッド」をカメラに収める若い人たちや外国人観光客をよく目にします。

そのようなことで、いままでの歌舞伎町は、退廃的な夜の街、暴力団がはびこっている危険な街という負のイメージがつきまとっていましたが、ゴジラの街になってからは、昼間の人通りが増え、心持ちおしゃれな街になってきているような気もします。

このようにゴジラは、元気がなくなりかけていた歌舞伎町の負のイメージを多少は払拭し、明るく活性化させる起爆剤になっているようですが、ゴジラロードから一歩外れると、昔のままです。

※添付画像は「ゴジラロード」です。

2017.07.23

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